
実験的に映像制作へ投入した、50年前のライツ・ウェッツラー・ズミクロンF2/35mm。
結論からいえば、映像レンズなど、極論すればガラス玉であれば何でもよい。
むしろ重要なのは、その後段にある編集工程だ。
今回はS-logで撮影しているから、古レンズ特有の“味”と呼ばれるものも、実際にはカラーグレーディング側で意図的に構築している。
つまり、ライツの色というより、プレミアプロの色だ。
しかも今回は、イタリア映画監督 Pietro Germi の色調を参照しながら、グレーディングの設定値を組み立てている。
そうなると、古レンズらしさとは、解像感ではなく、むしろ盛大に崩れるフレアやハレーションの方に残っている気がする。
ならば、古レンズの空気を映像に持ち込みたければ、晴天時に逆光を拾い、意図的にフレアが暴れる被写体を探した方が早い。
このあたりは、現代レンズが排除してきた世界でもある。
久しぶりに持ち出したSONY α6600は、手ぶれ補正が思ったより弱い。
結局、対策は昔ながらの撮影技術で身体を慣らすか、小さいことは正義に反するがジンバルを導入するか、あるいはボディ内補正の強いα7C2へ移行するかだろう。
もっとも、ブレもボケも、そしてハレーションすらも、映像では表現技法の一部だ。
静止画のように「正確に写る」が正義ではない。
むしろ、崩れ方のほうに空気が宿る。
さて、そんなレンズで撮るべき被写体とは何だろう。
おそらく、整理され尽くした観光地ではない。
逆光で白く飛びかけた古い看板、午後の西日に焼かれたビニール庇、湿気を含んだ木造アパートの階段、ゲストハウスへ転用された元妓楼、夕方の銭湯のガラス戸、川沿いに置き去りにされた自転車、そんな「消えかけた境界」のような風景だろう。
輪郭が曖昧で、少し記憶の方へ溶けてゆく被写体。
ズミクロンが似合うのは、たぶんそういう場所だ。