Creator's Blog,record of the designer's thinking

研究者の頭とクリエイターの感性で、書き、描き、撮り、制作しています

エッセイ1184.古レンズは、崩れ方を写す

京都 五条楽園界隈(2026年5月)

実験的に映像制作へ投入した、50年前のライツ・ウェッツラー・ズミクロンF2/35mm。

結論からいえば、映像レンズなど、極論すればガラス玉であれば何でもよい。

むしろ重要なのは、その後段にある編集工程だ。

今回はS-logで撮影しているから、古レンズ特有の“味”と呼ばれるものも、実際にはカラーグレーディング側で意図的に構築している。

つまり、ライツの色というより、プレミアプロの色だ。

しかも今回は、イタリア映画監督 Pietro Germi の色調を参照しながら、グレーディングの設定値を組み立てている。

そうなると、古レンズらしさとは、解像感ではなく、むしろ盛大に崩れるフレアやハレーションの方に残っている気がする。

ならば、古レンズの空気を映像に持ち込みたければ、晴天時に逆光を拾い、意図的にフレアが暴れる被写体を探した方が早い。

このあたりは、現代レンズが排除してきた世界でもある。

久しぶりに持ち出したSONY α6600は、手ぶれ補正が思ったより弱い。

結局、対策は昔ながらの撮影技術で身体を慣らすか、小さいことは正義に反するがジンバルを導入するか、あるいはボディ内補正の強いα7C2へ移行するかだろう。

もっとも、ブレもボケも、そしてハレーションすらも、映像では表現技法の一部だ。

静止画のように「正確に写る」が正義ではない。

むしろ、崩れ方のほうに空気が宿る。

さて、そんなレンズで撮るべき被写体とは何だろう。

おそらく、整理され尽くした観光地ではない。

逆光で白く飛びかけた古い看板、午後の西日に焼かれたビニール庇、湿気を含んだ木造アパートの階段、ゲストハウスへ転用された元妓楼、夕方の銭湯のガラス戸、川沿いに置き去りにされた自転車、そんな「消えかけた境界」のような風景だろう。

輪郭が曖昧で、少し記憶の方へ溶けてゆく被写体。

ズミクロンが似合うのは、たぶんそういう場所だ。